神学研究会「スペイン・ロマネスク美術―神の美術と神学」講演報告

第9回 神学研究会

「スペイン・ロマネスク美術神の美術と神学」

不可視な神の世界を、如何に可視化したか


勝峰昭先生をお招きして


「いくら芸術性が高いと人が言おうが、思想がなければつまらない。」

これはスペイン大使館での講座で、勝峰昭先生がある作品を評して語られた言葉です。その作品が何であったかは覚えていないのですが、当時としては新しい技法がふんだんに用いられていたものであったようです。しかし、たとえ芸術的技巧が優れていても、その作品自体に「思想がなければつまらない」のだと勝峰先生は言い切ったのです。この言葉は、美術に対する私の理解を変える大きな衝撃でした。それは、美術というものの奥深さを初めて覗き見ることができた喜びの瞬間でもありました。

 今回、わたしたちの神学研究会の講師としての依頼を受けてくださったことで、7月16日(水)第9回「親しみやすいキリスト教神学」講座において、勝峰先生を招いて「スペイン・ロマネスク美術神の美術と神学」の講義を実現することができました。大変ありがたいことです。さらに勝峰先生はこの講義に「不可視な神の世界を、如何に可視化したか」というサブタイトルをつけて、ロマネスク美術の基底にある「思想」に特に焦点を当てて語ってくださいました。そのためか、スペイン大使館での講義とはまた一味違ったスペイン・ロマネスク美術の魅力を知ることができました。それを私の拙い表現で簡潔に述べるならば、「可視」であるロマネスクの作品一つ一つはまるで「不可視な世界」へ開く扉のようです。「可視化」された作品を通して開かれた扉の向こうから「不可視な世界」が押し寄せてくるのです。それは私たちに語りかける神のロゴスです。だから、この語りかけを心で「聞き」そして心で「見る」必要に迫られる、それが勝峰先生がいう「思想」といったものなのではないでしょうか。


 スペインのロマネスク美術(11世紀〜12世紀の約200年)は、イスラムの勢力による侵略によって、キリスト教の建築物の多くが破壊された歴史があります。しかしその不幸が、かえって他国のロマネスク美術とは異なった独特の美術を生み出したのだと勝峰先生は言います。その作品の一つ一つに見られる幾何学的構成や彫刻技術、色合いと調和、対称性、均衡などには、他のロマネスク美術には見られない要素があって、その魅力はたった1時間の講義では決して収まるはずもない豊かさを持った内容でした。またスペイン・ロマネスク美術の魅力が力を与えるかのように、勝峰先生は実に生き生きと語り会場を賑わせつつ講義してくださいました。


 勝峰先生のロマネスク美術研究の始まりは、68歳のときにシロスのサント・ドミンゴ大修道院の回廊で、浮き彫り彫刻「トマスの不信」を見たときだといいます。当時、回廊は「修道院という宗教的共同体生活の中心的場」を形成しており、「修道士たちにとって、回廊は外気に触れる唯一の自由な思索と散歩の場所」(勝峰昭著『イスパニア・ロマネスク美術』p.128.)であったようです。この回廊の北西隅の柱に縦1.8メートル、横1.12メートルの「トマスの不信」と名付けられた彫刻があります。この浮き彫り彫刻を見たとき、まるでこの彫刻が語りかけてくるかのごとく輝き始め、勝峰先生は立ちすくんで動くことができなかったといいます。この体験を勝峰先生は「神からの啓示」と表現します。「啓示」というその圧倒的な語りかけ。日本におけるスペイン・ロマネスク美術の研究はここから始まったのです。
 「トマスの不信」はヨハネの福音書20章24-29節の出来事をモチーフにしています。十字架にかけられたイエスが復活した後、イエスは自分の弟子たちの前にその姿を表しました。ところがその時、ディディモと呼ばれるトマスだけはその場にいなかったのです。トマスはそれを嘆き、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」というのです。それから八日の後、イエスが再び弟子たちの前に現れ、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしのわき腹に入れなさい。」といいます。その脇腹に指を差し込んでいる様子を彫刻「トマスの不信」は表現しています。このとき最後に、イエスはトマスに次のように語りかけました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と。
 講義の後に設けた質疑応答の時間に、勝峰先生はこのイエスの言葉をとりあげて次のように回答しました。
「『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』このイエスの言葉は実に深く、また含蓄のある言葉だと思いませんか。この言葉にすべて凝縮されているように思います。みなさんの中で見なくて信じる人はいるでしょうか。私たちは見えるものを信じますね。風景を見てそれが見えるので確かだと考えます。でも、ロマネスクの時代は自然に「信」を置かなかったのです。今見えている自然は時間が経てば移り変わります。何も確かではない。物事の本質ではない。イデアではない。最大の価値あるものが簡単に変わるものであってはなりません。だから、ロマネスク美術に風景画というジャンルはありません。何が最大の価値であるか、何が本当に価値あるものか、そう考えるとそれは『見ないで信じる』ということになってくるのではないでしょうか。移り変わるものではなく、永遠に最も価値あるものを私たちは信じる必要があります。」
 私たちの心を魅了するロマネスク美術の根底にある「思想」を語るとき、「見ずに信じる人は、幸いである。」というイエスの言葉を持ち出すところに、この道の大家としての勝峰先生の心眼があるのでしょう。この心眼は、「トマスの不信」の前に立ちすくんだ「神の啓示」ゆえに授かったものなのかもしれません。その心眼はロマネスク美術に独自の洞察をもって問題提起をします。ロマネスク美術の作品には、イエスの聖なる描写とは正反対の邪淫といえるようなものが一緒に描かれているものが多くあります。これは、まだ字を読むことができない信者たちを戒めるための視覚教材として教育的な意味があったのだと理解されています。だから俗なるものは聖なるものの下に位置しているか劣っているものと見なされます。聖と俗は対等ではなく、聖が常に凌駕しているのです。しかしそれを踏まえた上でなお、勝峰先生はそれ以上に重要な要素があること指摘します。それは、ロマネスク美術において聖なるものと俗なるものはあえて並列に置かれていると見るということです。ところが、聖と俗の反対概念を並列に置くことで弁証法的に崇高なものが発展的に生み出されるのではないかということです。聖と俗があえて並列に置かれることで、私たちはさらなる崇高な世界、つまり「不可視な世界」へと誘われるというということです。だからこそ、ロマネスク美術という「見える」作品を前にして「見ずに信じる人は、幸いである。」という言葉が響き渡るのです。

 

 以上は今回の講義で、私になりに勝峰先生から受け取ったロマネスク美術の魅力を文章にしてみたつもりです。しかし、まだまだ大家の心知らず、表現に至らぬところや間違って理解していることも多くあるでしょう。それを承知してあえてこのようにまとめてみました。私もロマネスク美術を学ぶ者として、これから先、より一層理解を深めていかねばなりません。つきましては、勝峰先生にはたびたび神学研究会にて講義をお願いして教授頂きたく考えています。

東京キリスト教神学研究所 幹事 中川晴久